2022年11月9日9:00・水。晴れ。①今日は朝から、市星連行事の「健康ウオーキング」だったので、参加した。総勢80余名。倉治公民館を9時に出発して、源氏の滝や光明院などを回った。最終地は、教育文化会館。懐かしい地を久しぶりに回り楽しかった。おまけに、倉治の中央商店会からの「お買物券」があった。その券を使って、マコと一緒に早速、福すしに行き、昼食を摂った。
②帰って一休みし、畑に行った。これから植える予定のイチゴが汚かったので、見てみると、虫が沢山ついていた。原因は、ダイコンについている虫が、落ちてイチゴについていると判明。想定されるイチゴ苗を整理した。「イチゴの間にニンニクを植えるとよい」と聞き、ニンニクの間にイチゴを植えることにした。そうすると、イチゴ苗は200になる予定。これで来年の「イチゴ狩り」に耐えられるであろう?
③家に帰ると、Tさんからメモ。昨年から私が関心を持っていたことに対する情報だった。関心を持っていたこととは、「戦時下で、交野の子供たちは、勤労奉仕をさせられたのか」どうか、ということ。これまでの私の聞いたところでは、「女学校(旧制)の生徒は、枚方の禁野の砲弾工場で動員されていた」ということだった。それと同時に、「国民学校の生徒も、動員されていたのではないか」「国民学校の生徒は、逢合橋に集合して集団で香里の砲兵工廠に行っていた」という話を聞いていた。交野市史を見てもそのような記述がなかった。で、誰に聞けばよいのかわからなかった、という状態だった。当時11歳か12歳と言えば、現在は90歳以上の人。長寿会の方は殆ど他の町から嫁いできた方ばかり。聞いても「分からない」という返事。「私たちは勤労奉仕に行っていない」と。今回の情報は、交野市教育委員会のニュース162号に、「1944年(昭和19年)交野国民学校の高等科児童は香里工廠で奉仕作業」と書いてあること。市教委の公式文書にウソは書かないだろう。ということは、何らかの証拠に基づいて書いたものと思われる。小学生まで動員して戦争を遂行しようとした当時の様相の一端が分かる資料だ。こんな例は聞いたことがない! 暇を見つけて、市教委に行って教えてもらおう。
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